宗派 | 曹洞宗 |
本尊 | 阿弥陀如来(座像) |
観音霊場 | 馬頭観世音菩薩(松山西国観音霊場台29番札所) |
開山 | 月舟賢順大和尚(松山藩二代藩主松平定頼公の異母弟) |
開基 | 松山藩初代藩主松平定行公(法号:眞常院殿前侍従道賢勝山大居士) |
大本山永平寺御直末 伊予国法龍寺の末寺
本寺の法龍寺は、寺領100石を誇る松平家の菩提寺であり、毎年新年のご挨拶には、法龍寺の方丈(住職)とともに宝林寺の方丈は、松山城の三之丸藩庁へ登城していました。藩庁では、他の松平家菩提寺の住職らとともに、藩主家の拝謁を賜っていました。
松山藩士の菩提寺
このような寺格から、松山藩士の菩提寺となりました。菩提寺とした藩士家は以下の通りです。
奏者番 深見家
御使番 菅沼家
御馬廻 河原家 小出家 矢野家
堀江家 橋田家
御金賄 伊奈家
御膳番 高力家
御小姓 堀家
大小姓 近藤家 安西家
承応3(1654)年 | 法龍寺の二世住職である月舟賢順大和尚が、父定行公を開基にして御幸寺山麓に新寺院を開きました。一説には、法龍寺の住職であった月舟賢順大和尚の隠居寺として開いたとも言われています。 |
貞亨3(1686)年 | 松山藩四代藩主 松平定直公が宝林寺の隣接地に黄檗宗の新寺院(千秋寺)を造営し始めました。 |
元禄3(1690)年 | 宝林寺の隣接地では千秋寺が造営されていました。この千秋寺の境内拡張により、城下木屋町の福祥寺(現在の大法寺)へ移転しました。宝林寺の移転先である木屋町は、松山城三之丸藩庁の大手門(北御門)から今治街道へ抜ける街道に面していました。 |
寛政化政期 (1780~1830年) |
この頃、恵学祖燈大和尚が宝林11世となりました。祖燈和尚は拳骨和尚として名高い物外不遷大和尚の師匠でもあります。 |
昭和20(1945)年 | 松山大空襲により、伽藍のすべてを焼失しました。 |
昭和59(1984)年 | 宝林19世岱俊道芳大和尚により、本堂が再建されました。 |
平成以降 (1989年~現在) |
20世大休光潤大和尚、21世大雲法潤和尚の2代にわたって境内が整備され、伽藍が復興されつつあります。 戦後、松山西国観音霊場29番札所となり馬頭観音をお祀りしています。 |
現住職 中川法潤 21世大雲法潤和尚
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宝林寺の正式名称は「曹渓山 宝林寺」、曹洞宗のお寺です。
曹洞宗は、道元禅師(1200~1253年)によって鎌倉時代に開かれました。
それまでの仏教は貴族や一部特権階級のための宗教でしたが、曹洞宗は一般民衆に広く支持されていました。今や曹洞宗は日本最大の伝統的仏教教団で、全国の寺院数は1万数千ヵ寺、信教者は800万人といわれています。
曹洞宗のご本尊は釈迦牟尼仏(釈迦)で、「奈無釈迦牟尼仏」(釈迦牟尼仏に帰依するという意味)と唱え、主に座禅をすることによって修行をします。
道元禅師は「即心是仏」(正しい志で目標に向かうことが成仏の道)、「修証一如」(無限の修業をすることが成仏の道)と唱えられ、釈迦にならって「只管打座(しかんたざ)」(ただひたすらに座禅をすること)を主張されました。そのような修行の厳しさや修行者が自分自身を厳しく律する態度が、今もなお信者さんが多い理由と思われます。
曹洞宗で読誦(どくじゅ)される主なお経は、「修証義(しゅしょうぎ)」「般若心経(はんにゃしんぎょう)」「観音経(かんのんきょう)」「寿量品(じゅりょうほん)」などです。
宝林寺では、道元禅師や釈迦の教えをわかりやすく説明しています。
曹洞宗には大本山が二つあります。
道元禅師がご開山の永平寺(本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来)と4世瑩山禅師ご開山の總持寺(石川県輪島市にあったご本山を、明治44年に現在の横浜市に移転。本尊は釈迦如来)です。
ちなみに宗派を「曹洞宗」と称し始めたのは瑩山禅師の頃からです。
曹洞宗では宗派を開かれた道元禅師と曹洞宗を広めた瑩山禅師を「両祖大師」と尊称し、道元禅師を「高祖」、瑩山禅師を太祖」とお呼びしています。両大本山にも住職がいます。それぞれを「貫首」と呼び、2人の貫首が2年交代で宗門代表の「管長」務めています。
道元禅師(1200~1253)の生誕については、鎌倉時代に内大臣の土御門家に生まれたという説や他の貴族の家に生まれたという説などいくつかの説があります。3歳で父を8歳で母を相次いで亡くし、14歳の時に天台宗の比叡山延暦寺に出家しました。
道元禅師は天台宗で修業しながら、「人は生まれながらに仏性(生きとし生けるものが持っている仏の本性)があると言われているのに、なぜ厳しい修行をしなければならないのか」という疑問を持っていました。
しかし、その疑問の答えを得ることができず、1223年南宋へ留学をしました。
南宋では天童山の如浄(にょじょう)禅師に師事し、師の法を嗣ぐことを許されて1236年に帰国しました。ただし、帰国してからの道元禅師は自らの教えを「曹洞宗」と名乗ってはいませんでした。
その後、既成の仏教勢力から激しい迫害を受け、信徒の誘いを受けて越前に下向(1243年)しました。
翌年、傘松峰大仏寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立し、2年後(1246年)「吉祥山永平寺」と改めました。
「永平寺」は、曹洞宗の二つあるご本山の一つで、「永平」は中国の元号に由来し、「永久の和平」の願いを込めてつけられました。